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倭姫命の巡幸【まとめ】

 コロナ渦の第6波の中、感染状況を確認しながらとなりましたが倭姫命の巡幸地(元伊勢)を無事に巡り終えることが出来ました。今回自分が巡った巡幸地は「皇大神宮儀式帳」に記された場所でしたが、「倭姫命世記」によると更に多くのところを巡ったとされています。その他にも、その土地の人達によって倭姫命が巡幸された時に立ち寄ったと伝えられている場所もあります。機会があればそちらも巡ってみたいと思っています。

さて、倭姫命が巡幸された地をいつもの様に「国土地理院地図」を利用して地図上につなげてみました。

大和の国を出て伊賀、近江、美濃そして伊勢の国へとつながっていきますが、巡幸に関していくつかの疑問も湧いてきます。私は研究者ではありませんが、自分なりに考えた推察を笑われるのを承知で残しておきたいと思います。

【なぜ倭姫命は巡幸に出たのか】

そもそも「天照大神」は大和の国の宮殿内で「倭大国魂神」と一緒に祀られていましたが、崇神天皇のころ疫病により国の過半数の人が亡くなったり、それにより人々も混乱し国も乱れたりと災いが続いていました。そこで崇神天皇は「天照大神」を他の地へ移す事を決め、その仕事を皇女である豊鍬入姫命に託しました。そして豊鍬入姫命あとを継いだのが倭姫命でありました。

当時の日本の国内は様々な勢力があって、お互いがしのぎを削っていたのでしょう。その中で勢力を広げる為に手を結ぶもの、争うものがいたに違いありません。もしも国を追われるようなことになれば新天地を探さなければなりませんが、朝廷が都を離れる訳にはいかないのでその役目を皇女たちが担ったと考えます。またそれは「天照大神」を中心とする「太陽信仰」を広める為でもあったとも考えます。「武」ではなく「信仰」を広めることにより民からの信頼を得る事を考えたのだと思います

【巡幸地はどうやって決めたのか】

のちの「倭姫命世記」ではより詳しく多くの巡幸地が記されていますが、「皇大神宮儀式帳」と比べても倭姫命が巡ったルートはほぼ合致します。おそらくこのルートの境が当時の朝廷の「力」が及ぶギリギリのところだったのではないでしょうか。そこから先へ進めば「侵略」とみなされ「争い」になったのでしょう。それゆえにある程度のルートは事前に考えられていたのかも知れません。倭姫命が「美和の御諸宮」(今の三輪明神)で豊鍬入姫命から天照大神を祀る地を探すという仕事を託された時、倭姫命はまだ10代前半、一説によると11歳であったと伝えられています。倭姫命は「美和の御諸宮」を出て、同じ大和の国内にある「宇太乃阿貴宮」と「佐々波多宮」で数年間様々なことを学び、十分に計画を練って準備をして旅に臨んだと思います。なんの計画も準備もなく旅に出ては「天照大神」を祀り信仰を広めるという大任はおろか、自分の身すら危うくなるでしょう。

けっして当てのない旅ではなかった、と考えています。

【倭姫命は巡幸地で何をしていたのか】

これは「桑名野代宮」を訪れた時に人々の言い伝えとして残されていましたが、その回の中でも自分は『・・これによると倭姫命はこの地で4年間を過ごし、人々に農業、織物、治水などを教えていた・・』と結論付けました。

ただ「天照大神」を祀り祈るだけではなく、自分たちの持つ技術や知識を伝え広めることにより人々の信頼を得て、疲弊しきった人々の暮らしや心を豊かにしていったのでしょう。


境内に建てられた看板を見てそのことを確信し、その崇高な使命感に頭が下がる思いがしました。2000年の時を経てもなお、倭姫命の人間性が垣間見えた気がしました。

【そこに宮はあったのか】

巡幸地を巡る旅を始めた頃、自分自身がいちばん「謎」に思っていた事です。どの比定地を巡っても「ここにあった」と伝えられているだけで、何の痕跡も残されていませんでした。もちろん今でも神社や宮はありますが、「ここに移された」という記述しか見当たりませんでした。

謎は深まるばかりでしたが、「宮」が「建てられた」という記述がどこにもない事に気が付きました。

「宮」は建てられなかったのではないか。

そう推察するとつじつまが合う気がします。
どうしても「神社」や「宮」というと伊勢神宮のような人が入れるくらいの大きな建物を想像しますが、4年ないし2年、時には半年ほどで次の場所に移る事を想定すれば、そんなことをしていては時間と労力とお金の無駄になります。乱暴な言い方をすれば「3種の神器」といえども少し大きめの「行李」があれば入るのではないでしょうか。あるいは「宮」といってもそれほど大きなものではなく、可搬性のあるミニュチュアのようなもので良い訳で、その地を離れる時に分解して持ち運ぶことができたと考えます。
実際に伊勢神宮の神殿には釘が一切使われておらず、遷宮後は古い建物は解体され、その木材は他の神社に供給されています。倭姫命がその土地を訪れ土地の人達から住む家と田畑を与えられると、その住居で「宮」を組み立て「3種の神器」を祀ったとするのが最も合理的なのではないでしょうか。

かなり大胆な推察ですが、珍説ではないと思っています。

【まとめ】

今から2000年前の話となるとほとんどが推察になってしまいますが、2000年前の人達が今の自分たちよりも劣っていたと考えるのは、世界中にある遺跡を見ても間違いだと気付くはずです。

むしろ今の時代にも通ずること、学ばなければならないことは沢山あります。疫病、戦争、地球の温暖化。当時の人達はどうやって苦境を乗り越えたか、その人達の暮らしを研究して今に活かしていくことを考えなければならない時代に差し掛かってきているのだと感じます。

倭姫命は私たちに大切のものを遺していってくれたのだと思います。

巡幸地のグーグルマップ

https://goo.gl/maps/NztxfHWY6YxhXFXu6

YouTube動画

倭姫命の巡幸地めぐり

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