「神戸神舘神明社」
お昼からは天気も崩れてきそうなので朝から早速「神戸神舘神明社(かんべこうたちしんめいしゃ)」に向かいました。こちらの神社も前回の「神山神社」と同じく「飯野高宮」の比定地とされています。
神社の入り口は2つありますが、鳥居のある入り口から入ります。
しかし何か違和感を覚えました。一の鳥居をくぐって二の鳥居との間に今までとは様式の違う鳥居が建っています。
祭神は「天照皇大神」「豊受大神」「倭姫命」「乙加豆知命」とありますが、他にも祀られている神があるのでしょう。二の鳥居をくぐって左側に拝殿と本殿がありました。
しかし拝殿は「かんぬき」がかけられ、さらに鎖のようなもので固定されているようです。賽銭箱も無いようなので、遠くからお詣りするにとどまりました。
拝殿の横には「天照皇大神飯高宮跡」と大きく書かれた石碑が建っており、その横に「由緒」が書かれた石板もあります。
ここには倭姫命の事はあまり書かれておらず、懸主「乙加豆知命」が神田と神戸(租税)を差し出した事。それにより「蘭」の苗を与えられ、育てて精製して毎年内宮と外宮に奉納していたという事でしょう。「蘭」は「ラン」ではなく「アララギ」と読み「一位(イチイ)」という木の別名でもあり、神具に使われる材料となる木でもあるという事です。これで神宮との繋がりは見えてきました。そして神宮に奉納するための穀物の収納所でもあった。倭姫命との関係性は書かれていないものの、明治時代になるまでは神宮の重要な物資の供給源であった、というのが私なりの解釈です。
※石板に刻まれている「あららぎ」という字は現在使われておらず「蘭」という字を使用しました。
確かに神宮を支えるためには大量の物資が必要であると思います。倭姫命は「飯野高宮」で4年間伊勢に向かう準備を整えていたのでしょう。
拝殿のすぐ右隣には「神戸神舘神明社霊社」が祀られており、その脇から本殿がうかがえました。
倭姫命との関係性も逸話もほとんど残されていませんが、神宮とは強い繋がりがあり重要な支えであったと考えます。
さらに推察するならこのころ倭姫命は前回訪れた「神山神社」におり、伊勢に入る準備を着々と進め、そこからは一気に櫛田川を下り「多気佐々牟迤宮(たけの ささむえのみや)」「竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)」を経て最終的に「伊須須乃河上」に入ったのだと考えます。
一見「天照皇大神」を奉ずる地を探す為の放浪の旅であるように思いますが、そのためには綿密な計画と準備が必要であったと考えます。そして帯同した五神もそれぞれに重要な役割があり、農業指導を専門とするもの、建築技術に長けたもの、操船技術を持ったものもいたのかも知れません。2000年前の人達は自分たちが想像するより遥かに高い「技術」や「社会性」を持っていたと考えざるおえません。
寅寅寅
(参考文献:倭姫命の御巡幸/著者:楠木勝俊 監修:岡田登 他)