倭姫命の一行は「玉岐波流・磯の宮」以前には「多気佐々牟迤宮(たけの ささむえのみや)」に居たとされています。
多気郡明和町山大淀にある「竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)」がそうではないかと、さっそく行ってみました。
「竹佐々夫江神社」の隣にある公民館の駐車場に車を停めさせてもらいお詣りする事にしましたが、どこからともなく老人が現れました。
神社にお詣りする間停めさせてもらえないかと言うと
「あんた神宮の関係者か。」
と聞いて来たので素直に
「関係者ではなくて神宮の事について調べている者です。」
と答えました。
すると老人は
「そうか、実は神社の木が今にも倒れそうなので何とかしてほしいと思っとるんや。」
見あげると神社の大きな木が枯れかかっていて、確かに公民館の方へ倒れ掛かっているように見える。「塩害」なのだろうか、周りにある木々も一様に元気が無いように思う。
老人は自分が「神宮関係者」だと思い込んでいるのでしょう、一所懸命になって訴えかけてきます。
もし「関係者」の方がこのブログを読んでいただいているとするならば、この件をお伝えしたくて記事にさせていただきました。
さて、少し時間がかかってしまいましたが「竹佐々夫江神社」にお詣りすることにしました。
公民館からは神社の裏手を回り込んでいくようですが、細い木々の間から本殿の造りがよくわかりました。小さいながらもなんと立派な「神明造」であるのには驚きです。
路地を曲がると神社の入り口があり、境内に入って右に曲がると拝殿があります。
お詣りを済ませたら拝殿を撮影させていただきました。
拝殿横には石碑があり、神社の由緒について書かれています。
家に帰って写真や資料を調べていると、疑問が沸いてきました。
石碑に書かれていた文章を読んでいると、どうやら「竹佐々夫江神社」と「多気佐々牟迤宮」は違うのではないか。
石碑に書かれた「由緒」をよく読むと、以前は「佐々夫江橋」付近にあったがここに移された。「多気佐々牟迤宮」は今と違うところにあったということになります。神宮が今の場所に移されたあとも「多気佐々牟迤宮」は「竹佐々夫江神社」として大切に祀られてきたのでしょう。
どうやらもう少し範囲を広げて散策をした方がよさそうです。
寅寅寅
(参考文献:倭姫命の御巡幸/著者:楠木勝俊 監修:岡田登 他)