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倭姫命の巡幸 9

前回まで。

 倭姫命の巡幸を辿る旅。今回は9回目になりますが、ここまでで出発点である伊勢市を出て亀山市の「鈴鹿小山宮」(忍山神社)までたどり着きました。そこから桑名市にある「桑名野代宮」へ向かう予定でしたが、それから先は愛知県と岐阜県と県を跨ぐ移動になります。しかし残念ながら愛知県と岐阜県に出されている「まん延防止等重点措置」は引き続き延長される事となり、順序通りとはなりませんが計画を変更することにしました。比較的感染状況が落ち着いている地域。あるいは「まん延防止等重点措置」が解除される地域、出されていない地域から先に巡る事とします。

今回は伊賀市にある2社を巡ることにしました。あまり土地勘のない場所なので機動力のあるバイクで向かう事にしましたが、さすがに山を越えると空気が一変しとても寒く感じました。やはり伊勢は温暖なんだと痛感し、倭姫命が伊勢を選んだ理由も分かる気がします。

伊賀鉄道線沿いの国道422号線を北に向かって走って行きます。踏切で待っているとユニークなラッピングを施した電車が目の前を通り過ぎていきます。ナビの案内通りに木津川にかかる細い橋を渡って進んで行くとすぐに「伊賀穴穂宮」(いがのあなほのみや)の比定地とされる「神戸(かんべ)神社」に到着しました。

神社の横には広い駐車場もありました。

さっそくお詣りすることにしました。

境内には護国社もありました。拝殿の隣には「倉」のような建物があり、今まで見たことの無いような並びに少し驚きましたが、稲作が盛んに行われていることの証明なのかと理解しました。

お詣りを済ませるといつもの様に拝殿の横に回って正殿を拝見することにします。

立派な「神明造」の正殿で「皇大神宮」と同じ造りになっていました。伊勢神宮で遷宮が行われた後の「古材」を譲り受け正殿の造営に使っているという事から、神宮とのかかわりも深いのでしょう。

境内には井戸があり、井戸の横には石碑が建てられいます。

どうやら倭姫命が訪れた時には井戸があったらしく、図面通りの場所を掘ったら水が湧き出たことからやはりここが「伊賀穴穂宮」だったのであろう。ということなのでしょう。いずれにせよ「倭姫命」という名前が出てきて安心をしました。

思っていたより早く事が運んだので次は「阿閇柘植宮」(あへつみえのみや)を目指し国道422号線を更に北に向かって進みます。「上野東」ICから名阪国道を走り「上柘植」ICで降りてしばらく走ると「阿閇柘植宮」の比定地とされる「津美恵神社」(つみえじんじゃ)に到着しました。ここまで来ると「三重県」というよりもう「滋賀県」ではないかと思ってしまいます。実際少し北に走ればそこはもう「滋賀県」になります。「津美恵神社」は廃園になった幼稚園の隣にありました。その跡地の駐車場にバイクを停めお詣りします。神社は石段を少し上がった山の中腹に建っていました。

石塔には「元伊勢津美恵神社」とありますが、鳥居は少し様式が違っていました。拝殿までの間には神宮の遥拝所があり、さらに進んで石段を上がり拝殿前へとつながります。

石段を上がると拝殿前はやや狭く、写真を撮ろうにも全体が見えなかったので石段下から写真を撮りました。「御由緒」を読むとこの神社は出雲との繋がりが強いようです。鳥居の様式が違うのはそのためでしょう。

そしていつもの様に拝殿の横に回って本殿を確認しよとしますが、狭くて全体は確認できませんでした。どうにか木の間から屋根の一部が見えたのですが、それを見て少し驚きました。

「千木」(ちぎ)の端は空に向かって真っすぐ、そして「鰹木」は奇数の5本。これは豊受大神宮と同じ造りになります。先ほど訪れた「神戸神社」と比べればよく分かります。

倭姫命が巡幸で訪れた時、豊受大神宮はおろか皇大神宮もまだ存在していなかったはず。のちに神社が移されたり建て替えられたりしたとしても明らかに様式が違うのはなぜなのでしょうか。民族と文化の違う人達がこの日本の中で共存していたのでしょうか。倭姫命は混乱を避け新天地を求め、各地を巡行していたのでしょうか。ますます謎は深まるばかりです。

寅寅寅

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