梅雨の季節、出かけるのもなかなか億劫になりますが、先日午後になって雨が止んだのを見計らって御園町の「山田奉行所記念館」に行って来ました。
山田奉行所のあった伊勢市の御薗村(当時)は「平成の大合併」により2005年(平成17年)に・二見町・小俣町とともに伊勢市と合併をしました。
当時の御薗村の人達は、「山田奉行所」を何とか形として残し、後世の人に伝えていきたいと考え、「記念館」として設立に至ったとの事です。
さて、「山田奉行所」と聞けばおそらく自分たちの年代の方なら「ピン」と来るはずですが、「大岡越前」が赴任していたことでも有名です。
山田奉行所の18代目奉行として4年間就任していました。当時は「大岡能登守忠相」と名乗っていたそうです。
早速「山田奉行所記念館」を訪ねる事にしました。
大通りから離れて少し狭い道を進んで行くと、宮川の堤防近くに記念館がありました。
駐車場も広く、平日の昼間だったこともあり、自分の他に訪れる人もいませんでした。
立派な門が見えてきます。その横に案内所があり、手指の消毒とコロナ対策の為に連絡先の記入を促されました。
受付にいた方が館内を案内してくれました。
館内に入ってまず驚くのは大きな太鼓が飾られていることです。御薗町に住む個人が寄贈したものだそうですが、こんな大きな和太鼓は見たことがありません。
その奥のガラスケースの中には「虎丸」という御座船の模型が飾られていました。この御座船は68挺立て(漕ぎ手が68人)で全長が26mほどあるかなりの大型船だったそうです。元は豊臣秀吉が所有していた船を徳川家康が受け継いだとの事です。
山田奉行所は1845年(弘化2年)に火事で全焼しており、翌年の1846年(弘化3年)に建て替えられました。幸いにもその時の平面図が残されており、その平面図を元に記念館が建てられたとの事です。
「奉行所」というと今でいう「裁判所」と同じだと思っていたのですが、それにしてもなぜ海に近い川べりに奉行所があったのでしょうか。説明によると「奉行所」は裁きをする場所だけでなく、海上を守る基地の役目も持っていたとの事。今でいう「海上保安庁」の役割も担っていたそうです。奉行所の辺りは入り江になっており、たくさんの船が行き来しており、常に海上を監視していたのでしょう。だから大型船まで配備されていたのだと思います。少し目からウロコが落ちた気がしました。
「大岡能登守忠相」が「山田奉行所」にいた頃は奉行は2人おり、1年ごとに江戸に帰ってもう一人の奉行と交代していたそうです。あまり「馴れ合い」にならないようにという配慮があったのかもしれません。
館内には「お白州」も再現されていました。
「大岡能登守忠相」はいつも髭を抜きながら訴えを聞いていたと言われています。
さて「大岡越前」と言えば「大岡裁き」で有名です。
「大岡能登守忠相」が山田奉行所に居た頃、幕府の領地である山田(伊勢市)と紀州徳川家の間で領地争いが絶えませんでした。しかし大岡忠相が境界線を決め争いを解決した。と伝えられており、この出来事により当時の紀州藩主だった徳川吉宗に認められて、吉宗が将軍職に就いた時に「江戸南町奉行」に大抜擢されたと言われています。
「江戸南町奉行」になってからは「大岡裁」きで有名になり、いくつものの逸話が残されていますが、調べていくとこれらは殆どがのちに作られたお話か、または他の奉行のお話であるようです。
どちらかと言えば大岡忠相の仕事は市中政策が中心であり、吉宗の指示で「享保の改革」を「町奉行」として進めて、政策を打ち出していくのが役目であったのだと思います。
大岡忠相は山田奉行所に赴任する前からすでに頭角を現しており、山田奉行から江戸南町奉行になったのも、すでに道筋が決められていたのではないかとも言われています。
しかし吉宗の右腕として「享保の改革」を進めただけでなく、「江戸の町火消制度」の創設や、庶民の為の養生所「小石川養生所」を設立したりと、庶民に寄り添った政策にも携わったことから、大岡忠相は庶民から憧れと尊敬の目で見られていとのだと思います。
また徳川家の信頼も厚く、のちに三河国西大平藩の大名となる訳ですが、奉行から大名までなったのは大岡忠相ひとりだけというのも頷けます。
今の時代にこのような政治を行える役人や政治家がいるのでしょうか。
やはり大岡忠相は当時の庶民にとってヒーローであったと思います。
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山田奉行所記念館:伊勢市公式HP
施設案内 山田奉行所記念館|伊勢市公式ホームページ (city.ise.mie.jp)