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伊勢街道を歩く:後編

 近鉄明野駅から前日のゴール地点である「へんばや商店」までは歩いて10分ほど、そこからまた外宮を目指して再び歩き始めます。
「へんばや商店」を過ぎた辺りから道が新しく広くなります。500mほど歩くと変則的な交差点があり、大通りの右隣のやや狭い道が旧伊勢街道です。ほとんどの車は大通りを行くので、車の通りも少なく少しほっとします。

街道を歩いていると、大通りの車の音が聞こえてきます。こちらの方は車の通りも少なく穏やか。うねうねとうねるような街道を歩き続けると「外城田川(ときたかわ)」に差し掛かりました。

この川は宮川の支流ではなく、玉城町の「国束山(くずかさん)」辺りに源流があるとの事です。川幅もさほどなく、深さもあまりないようです。どれくらい前から橋があったのかは調べても分かりませんでした。あるいは歩いて渡った人もいたのかもしれません。
「外城田川」を過ぎると小俣の街中に入っていきます。この辺りは宮川を渡る前、伊勢に入る前の最後の宿場町として栄えていたと言います。自動車学校のすぐ横にある「汁谷川(しるたにがわ)」を渡ると宮川堤に到着します。

堤防を下りていくと「桜の渡し場」跡がありました。

かつては「お伊勢さんほど大社はないが、なぜに宮川、橋がない」と歌われていたそうですが、ここが伊勢街道最後の難関でありました。今でこそ川幅も広く流れも緩やかですが、昔は「暴れ川」で水深も深く、川の流れも速く「ごうごう」と音をたてて流れていたと言います。ひとたび増水すれば10mも水かさが増し、幾度となく水害に見舞われていたという事です。神宮を守るために橋をかけなかったのではないか、という推察もありますが、『かけたくてもかけられなかった』のではないかと思います。
せっかく橋をかけても増水すればあっという間に流されるのでしょう。
橋を架ける計画は明治時代初めからあったそうですが、JR線の横にかかる「宮川橋」が完成したのは1919年、大正8年になってからだそうです。それまでは仮設の橋を作り、増水すれば解体したりしてしのいでいたそうです。
宮川の源流は日本でも有数の「降雨地帯」である「大台山系」にあり、そこに降った雨が流れ出たならば、かなりの水量であっただろうということは簡単に想像できると思います。

伊勢街道を歩き続け、伊勢神宮を目指した人達も、小俣宿で水が引くのを待つ日もあったと思います。
「おかげまいり」が全盛の頃、宮川を渡る3か所の渡し場で1日23万人が伊勢に渡った、という記録がありますが、梅雨時ともなればここで足止めされていた人たちが一気に渡ったと考えるならば、あながち荒唐無稽な数字ではないのかも知れません。

さてそれではいよいよ「宮川橋」を渡っていきます。

JR線の下をくぐり、堤防に上がるとJR線と「宮川橋」が並んで架かっているのがよくわかります。

「宮川橋」はあまり広くはなく、車がすれ違いできるギリギリの幅しかありません。交通の妨げにならない様に、なるべく端の方を歩きます。
川下を見ればJR線、川上の方を見れば「度会橋(わたらいばし)」が見えます。

橋を渡りきるとそこにも「桜の渡し」の案内板がありました。

ここから一気に外宮を目指して歩き続けます。

二見街道との分岐を過ぎて国道を渡り「筋向橋(すじかいばし)」を通過。

ここまでくれば外宮はすぐ近く。

そしてついに外宮に到着しました。
すると黒い雲がかかり、歩き続けて火照ったからだを涼しい風が通り抜けていきました。

参道を歩いていくと、何とも言えない感情がこみ上げてくるのがわかりました。
二日間にわたっておよそ15km程の街道歩きでしたが、なぜ人々が伊勢を目指したか、よくわかる気がしました。
今はとても便利な世の中ですが、それに慣れすぎてしまっているのだと思います。
車なら1時間もかからない距離だと思いますが、街道を歩くことでしか味わえない感動もあるのだと思います。

もし自分が昔の人間で、これからまた何日もかけて故郷に帰ったとするのならば、故郷の人々には何と伝えよう・・

「やはり伊勢はとても素晴らしいところだった。」

そう言うに違いないでしょう。

寅寅寅

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